空調の利いていない広い室内はじっとりとしていて、知らぬ間にうっすら、と太ももの内側から汗をかかせる。棚にかざられた乳白色の女神像と目があった、その完璧な肌はすべらかで声をかけられるまで、あたしはその黄金率のなまめかしい体から、目をそらせなかった。

                 

「すまないね、今朝空調が壊れてね」

「いえ、大丈夫です。榊監督」

「午後までには直すように言っているんだが」

「監督も暑い中大変でしょう?」

「いや、私は大丈夫だよ」


                 
目の前で榊監督は濃紺のダブルのスーツに身を包み、額に一滴の汗もかかず、椅子に深く腰掛けている。豪奢な机の上にここ一ヶ月間のレギュラー部員の勝率と練習成果を記入したファイルを置くと、長く骨張った手がそれを手にした。パラパラとその手の中で的確に要点だけが取り出されてゆく。

               

「ふーむ、鳳は頑張っているようだな」

「ええ、校外でも宍戸くんがずっと練習に付き合っているようで」

「良い事だ、あの2人はやはり組ませて良かった」

「そうですね」

                 

たれた目じりがファイルに集中している隙に、あたしは直し忘れたスカート丈を気づかれないように、こっそり一段、二段と下げる。榊監督の部屋に入る前に胸元のネクタイと空けたボタンは直したものの、スカートにまで気が回らなかった自分に舌打ちをしたい。

                 
                 
「それで気になる事があるんだが.........」

「え?はい!」


微妙に変な姿勢で直立したあたしを見て、間を置いてから監督はファイルに視線を戻した。その口元が少し笑っている風に見えて、あたしは恥ずかしくなる。バレた。



「日吉のここ最近の勝率がガクッと落ちている」

「そう.......みたいですね」

「体調も万全のはずだが、急激に中旬頃から調子が悪くなったみたいだな」

「ええ」

「マネージャーとして何か気づいた事はないか?」

「.......と言いますと?」

「何か調子が悪くなるような事やそういうような事に心当たりはないかという事だ」

「うーん、心当たりですか...........」



腕をくみ、考え込むフリをしながら、あたしは心中でその心当たりとやらにすぐ思いついた。けれどそれを今ここで言うわけにはいかない。なんてたってその心当たりとやらは、今まさに監督の目の前に立っているのだから。

                 

「思いつかないです」

「そうか」

                

監督の視線が妙に長く自分に向けられているような気がして居心地が悪くなる。やっと視線をはずした監督は椅子から立ち上がり、ファイルを机にポンっと置いたかと思うと、あたしの正面に回りこんで、浅く机の上にその長身を腰掛けた、あたしの視線と榊監督の視線が、対等になる。低く目を見つめられてこの部屋の暑く湿った空気が、じわじわと体に重い。 つーと汗が一筋、首筋を流れた。



「立ち入った事を聞くようですまない」

「何でしょう?」

「君と日吉が付き合っているという噂を聞いたんだが.......」

「..............」

「その事と今回の事は関係しているのかね?」

「監督......それは......」

「わかっている、非常にプライベートな事を聞いているのは、しかし教師として、そして氷帝テニス部の顧問として、部員の不調の原因は突き止めなければいけない」

「.................」

「日吉が今の状態から抜け出せないようならレギュラー落ちもあり得るんだ」

「................」

「詳細までは聞かない..........どうなんだ??」


                 
優しく聞く声に恐る恐る榊監督の顔を見上げれば、薄灰色の瞳に咎めるような色はなく、ただその目は純粋に答えを求めていた。



「..........私と日吉くんは付き合っています。今回の事も、もしかしたら関係しているかもしれません」

「そうか」

                 
                 
口角が上がり奇妙に口元がひくつくのをおさえる。“もしかしたら”?自分で今言った言葉に内心可笑しくなった。“もしかしなくとも”じゃないか?

                 

数週間前、あたしは日吉に忍足と悪戯に戯れているのを見られた。あたしの足が忍足の膝にのせられ、忍足の右手があたしのシャツに入ったままの状態を、驚愕したように目を見開いて見つめていた日吉。「..........自分怖い子やな」そう笑いながら、あたしの首筋に噛み付いた目の前の男を、あたしはちっとも好きではなかった。気になるのはついさっき駆け出して行った子の事ばかりだった。けれど、あたしは開けた胸元にかかるさらさらとした長い髪を、最後まで払いのけたりはしなかった。



                 
「喧嘩をしました、多分原因はそれです」
                 
「.............わかった、話してくれて感謝する」
                 
「すみません、監督」
                 
「いや、もう行ってよろしい、


                 
うつむいたあたしを労るように、榊監督は視線をそらして頷いた。次の瞬間、その視線が何かに気づいたように氷帝の服装規定よりは少し短めのスカート丈にすいつく。ヤバい、と思ったけれど、あたしは先ほど直しそびれたスカート丈を今さら隠す手段は無かった。そして、本当はそのスカート丈を直すことにより、隠れる太ももの内側の赤い痕もー


                 
「監督、これは............」

                 
                 
教師と女性生徒の間にしては、いくぶん色の付きすぎた気まずい沈黙が流れる。榊監督は視線をそらすことに失敗し、あたしは下手に口を開いた事により、彼の失敗を露呈させた。虫さされと言い張るには少しばかり大胆に唇の痕が残っているその肌を隠すように足を閉じ、この場をどう取り繕うか真剣に思案する。部屋の空気がさらに一段と暑く重くなり、首筋と体がじっとりと汗ばむ。沈黙に耐えきれなくなったあたしが、何か言おうと口を開きかけた時に、先に監督が口火を切った。

                 
                 
「.どちらに非があったにしろ喧嘩は日常生活に支障にならない程度にしておけ」
                 
「............はい」
                 
「怒るも罵るも相手の気を引くのには十分だろう」
                 
「............」
                 
「動機をもった行動は相手を傷つけるにしろ、いつかは相手に伝わるものだ」
                 
「............どういう意味ですか?監督?」

             

長い足を組み、膝の上に骨張った手をのせ、すくい上げるように見る榊監督の真意がわからずに問い返すと、あたしを見つめるその目に一瞬、憐憫のようなものが浮かんだ。


                 
「ただ“できるから”というだけで男の子を傷つけてはいけないという事だよ」
                
「............っ」

「それは好奇心で蟻を踏みつぶす子供の幼さと同じだ」
                 
「監.......っ!?」



                
異論を唱えようとした直後に、ふわりと頬に柔らかい絹の質感を感じた。胸元のハンカチーフを広げて監督が、小さな子供になだめるようにそれであたしの汗ばんだ額を優しく拭った。薄灰色の瞳がすぐ目の前にある。

               
        
「それはとっておきなさい、そして今度こそそのスカート丈を直して............“行ってよし”だ、
        

         
あたしの手にハンカチを残し、監督は机から立ち上がり背を向けて椅子の方へ戻って行った。呆然と渡されたハンカチを握りしめ、腑に落ちないままあたしは一歩一歩ドアの方へと向う。背後で軽い咳払いとファイルをパタンと閉じる音がする。

                
                 
「監督は......傷つけられた事があるんですか?」
         
      
  
ドアの取っ手を回し、外に出る間際、振り向き様にもう何も言わぬ背中に聞いてみた。意外な事を聞かれたように訝しげにこちらを向いた榊監督は、目じりの皺を寄せて、少し笑って言った。



「どちらもだよ」



精悍な顔の中で、一瞬過去へと思いをはせた薄灰色の瞳だけが、はるか昔15歳の少年だった頃の彼を思い起こさせた。ドアを開き、明るい日射しを部屋の中に招き入れながら、あたしは背後にたたずむ少年を部屋に残し、光の中へと踏み出して行った。乾いた風がふき汗ばんだ体をほぐしてゆく、なめらかな肌の女神像は、未だ空調の切れた部屋の中、その完璧な肢体はもう見えない。


                



夢から覚めたように長い廊下を歩きながら、向こう側から同じように歩いてくる人影を見つける。あたしを確認すると、その人影は一瞬体を強ばらせ立ち止まり、俯きがちに早足で横を通り抜けようとした。


                 
「日吉」

                 

声をかけるとしばしの沈黙の後、しぶしぶとゆっくり白い細面の顔がこちらを向いた。その傷ついたきれいな目。それはあたしに告白した日とまったく変わらず、同じに澄んでいた。

                 
                
「ごめん............日吉」



精一杯の思いを込めて腕を広げた。苦しそうに眉根をよせて首をふった日吉、うつむいた顔に見てとれる葛藤、迷い、蔑み、憎悪、それらが愛おしさとどろどろと溶けあわさって、消えてはまた長い睫毛の下の瞳に現れる。噛み締められた唇が痛いほどに赤い。

                 
目の前で日吉の体が揺れた。

                 
踏み出された一歩目で、カッターシャツの白と草の匂いのする首筋に、体を押し付けられる。腰に回された腕が余裕無く背中を這い、あたしの肩に強く、強く、埋められた薄い唇から、くぐもった音がした。抱きしめられたあたしの視界の先には、先ほど目眩のような暑さを体験した部屋に通じるドアがある。その中にいまだ一人座る人。自分は汗一滴かかずあたしの額の汗を拭い、その余裕をもって諭した人。多分...........彼ならば、あたしの肌の上に落ちる視線は、日吉のような重い情熱を帯びず、あたしの体を抱く手は忍足よりも容赦がないだろう。密着した日吉の体の匂いに混じって、かすかに白檀のかぐわしい香りが漂う。それが自分が握りしめていたハンカチから発せられている事に気づいて、あたしは目をつぶった。

抱きしめた日吉の少年らしい腰の細さを、愛しく思いながら、子供だけれども女であるあたしは、大人の男を壊すにはどうすればいいのか、考えたー












                 
    
             
090909